彼女の福音
参拾 ― 喫茶店のゴシップセッション ―
「はー。まだ続いてたんですか」
私は紅茶にミルクを入れながら嘆息した。ここ、Folkloreの飲み物はコーヒーだけでなく紅茶やココアなどいろんな物が最高においしい。はっきりいって、ここにくるためだけに光坂に来てもいいくらいだった。
「まぁ、ね?」
そう言って照れくさそうに笑う杏さんは、年下の同性である私から見てもとてもかわいらしく見えた。
「大変じゃないですか、お兄ちゃんだし」
「まぁ、これが知り合ってばっかりとかだったら、きついかもしれないけどね」
「短所も把握してなお傍にいたい、か……愛だなっ」
今まで静かに紅茶をすすっていた智代さんが急に断言するように言った。すると気のせいか、視界の片隅で昔のお兄ちゃんみたいな髪の男の人たち二人が体をこわばらせたように見えた。
「お、おい、聞いたか」
「ああ、噂は本当だ」
「あの坂上が『愛』だってよっ!信じらんねえ」
「サブちゃん、写メール取っとく?」
「ほら智代、そんなに大きな声で言わなくてもいいじゃない」
「む……すまん」
ばつが悪そうな顔をする智代さん。こっちもこっちでかわいらしい。
「周りの状況が見えないと、朋也も迷惑しちゃうわよね」
「む」
杏さんの口に意地悪そうな笑顔が浮かぶ。それにつられて私もにやりと笑った。
「最近多いらしいですよ?空気が読めないって理由で別れるカップル」
「……」
「芽衣ちゃんもその話聞いた?きついわよね、それって。大概本人には自覚がないんだから、いつのまにか身に覚えのない理由で別れさせられちゃうんだから」
「…………」
そこまで言って、私と杏さんは吹き出した。私たちにだってわかる。岡崎さんは、雨が降ろうと槍が降ろうと明日世界が終ろうと明後日世界が創造されようと、絶対に智代さんと別れたりはしない。というか、日に日にバカッポー化していっているのではないかと思う。
「なんてね、冗談よ智代」
「ごめんなさい。からかいすぎましたね……あ」
「あ」
智代さんを見て、私も杏さんも笑うのをやめた。
「朋也……私は……」
智代さんは目を潤ませて、俯いていたのだった。あー、これはあれの前兆だ。
「私みたいな空気の読めない女は嫌なのか?ふふふ、そうか、嫌か。私は全然気付かなかったのにな。そうか、馬鹿だな私も。そういえばずっと昔、校内で有名になっているのに自分では普通の女の子だって思っていた滑稽な女がいたな。ああ、あれも私か。そうかそうか。そんな私の隣じゃ、朋也も大変だろう。もう疲弊しきっているのかもしれないな。もしかすると今夜あたりにあの緑の紙が差し出されるんだろうか。でも、そうしたら私はどうしたらいいだろうか……」
「あ、あのね、智代?」
「え、えと、智代さん?」
だめだ。ここまで深いのになると、解除できるのは岡崎さんぐらいなんだろうけど、運が悪いことに岡崎さんは休日出勤で今頃はどこかの電柱を修理しているところだろう。このままだと智代さんが臨界点を超えて、ここ、Folkloreを中心とした半径二キロの構築物及び生命の無事は保証できない。
そんな時
ぴるるるる ぴるるるる ぴるるるる
「え?携帯?」
「これって、智代のじゃない?」
「あ、ああ……もしもし」
ハンドバッグから携帯を取り出して、智代さんは電話に出た。
「ああ、どうした……何だそれは……馬鹿……うん……うん……私も大好きだぞ……うん、今夜は朋也の好きな鮭チャーハンだ……うん。じゃあな」
話しているうちにみるみる顔が赤くなったり頬が緩んだりしてくる。通話終了の時点ではヒマワリも恥じらうような笑顔を取り戻した。一分足らずの会話で、光坂市の平和は保たれたのだった。
「すまない。何の話だったかな?」
「え、ええ。確か……」
杏さんは少しばかり強張った笑顔でうーん、と首をひねった。
二杯目の紅茶も飲み終わり、そろそろケーキでも注文しようかと悩んでいると、智代さんが面白いネタを振った。
「そういえば、今までずっと答えが聞きたかったんだが」
「ん?なあに」
紅茶のカップを受け皿に戻すと、智代さんは私も長い間疑問に思っていたことを言ってくれた。
「杏は春原のどこが好きになって付き合いだしたんだ?」
「なっ……」
顔を真っ赤にして、杏さんは絶句した。
「そりゃ……その……」
「わからない、と逃げられても困るぞ。付き合ってそれなりに経つじゃないか。何というか、私だって春原は悪い奴じゃないとは思うし、蓼食う虫も好き好き、というしな」
「とんだ言われようね」
私もそう思っていた時期がありました。でも、お兄ちゃんだしなぁ。岡崎さんと仲のいいお兄ちゃんのことだから、当然智代さんともそれなりに付き合いがあるんだろうし、素敵な思い出もあるんだろうなぁ。ええ、ええ、本当に素敵な思い出とかが。
「だから、何がきっかけだったのかなぁ、と興味がわいてきてな」
「……ねぇ、芽衣ちゃんだってお兄さんのことそんなに言われたら嫌でしょ」
「私も興味あります。二人の間にはどんなロマンチックなきっかけがあったんですか」
「なっ」
ごめんなさい、杏さん。私、春原陽平の妹である前に、ゴシップ好きな一女性です。
「さあ話せ。黙秘権は認められない」
「そ、そんなの言う義務なんてないわよっ」
「何を言っているんだ。二人とも私の親友なのだから、私には知る義務がある」
「私も当事者の妹として、それから未来の義妹として知る義務があります」
観念する杏さん。私達を軽く睨み、窓の外を眺め、そしてため息をついた。何というか、仕草一つ一つが絵になる人だなぁ、と感嘆してしまった。
「……ねぇ智代、答える前に聞いていい?」
「ああどうぞ」
「あんた、朋也に何を求めてる?」
のっけから簡単に答えられないような質問だった。しかしそれでも
「決まっている」
智代さんの中ではすでに答えは出ているようだった。
「私が朋也に求めているものはただ一つ。私のことをずっと好きでいてくれることだ」
「それだけよね?」
「ああ。他の物には興味はない。金も住む環境も、衣服も食事も、朋也が傍にいてくれるんだったらどうにでもなる。いや、どうとでもしてみせる」
「傍にいてくれる、ね」
ふふ、と杏さんは笑った。
「あたしも同意見よ、智代。あたしはね、傍にいてくれるから、陽平が好きなの」
「……ふむ」
「考えてみればね、あたしにだって高校や短大で仲のいい友達なんてそれなりにいたわよ。それは生徒会長だったあんたならなおさらだろうけどね。でもね、そんな友達の中で、今でも一緒にいてくれる仲間って、そんなにいないでしょ」
そういえば、私にだってずっと一緒だと思っていた親友が何人かいた。今、何してるんだろうな、みんな。
「でも、陽平はさ、そうじゃなかったでしょ。住む町が違っても、よく顔を出してたし、よく話したし、よく笑ったし。だから安心できるのかしらね」
「安心、ですか」
うん、と杏さんは頷いた。
「一緒にいても、どっか行っちゃわないんだって、ずっと傍にいてくれるんだって。ま、完璧じゃもちろんないけどね、あんた達もよく知ってるように」
「……そうだな」
「それがきっかけ。その後どうなったかは、うん、話す義務はないわね」
杏さんが悪戯っぽく笑った。
「智代は……あんたらの惚気は普段から聞いているから特にいいわよ」
「む」
ぽりぽり、と智代さんが頬を掻いた。
「……そんなつもりはないのだが」
「ねぇ芽衣ちゃん、トモトモーズの間にあるのは何?」
「永遠の愛じゃないですか」
「じゃあ二人が結婚したのはいつだったかしら?」
「確か六月二十日、って話してましたよね、さっき」
「そうよねぇ。プロポーズの言葉、覚えてる」
「もう一句一句諳んじて言うことができますよ」
「わかったわかった」
降参だ、と言わんばかりに智代さんが両手を挙げた。そして一瞬の間の後、三人で笑う。
「お、おいサブちゃん」
「すげえ、あの坂上が笑ってるぞ」
「初めて見るぜ。記念に撮っとくか」
「やめとけよアッツー。見つかったら殺されるぞ、おい」
すると、智代さんと杏さんが顔を合わせて笑った。あ、やな予感。
「そういえば、まだこの手の話をしていない人が、ここにいたわね?」
「そうだったな。仲間外れはよくないな」
ふふふふふ、と意地悪な笑みを浮かべて私を見る智代さんと杏さん。
「芽衣ちゃん?芽衣ちゃんは今付き合ってる人とか、好きな人とかいないかしら」
「えー、いませんよー」
やだなぁ、と笑ってごまかそうとした。
「またまたぁ。芽衣ちゃんみたいにかわいかったら、会社でもモテモテじゃないの」
「確かに芽衣ちゃんは私から見てもかわいいからな。同僚の男性がほっとかないんじゃないだろうか」
ずい、と迫るお二人。
「……初恋の経験ならありますけど、その話にしますか?」
上目遣いで聞いてみると、私の義姉(予定)は満足げに頷いた。
「そうね、乙女にとっちゃ、それも同じくらい価値のある話題ね」
「うむ。聞かせてくれ」
「その人は、少しワルっぽい印象のある人で、時々怖い感じがしたんです」
「……何となくわかるわね。それに弱いって子もいるしね」
「大概はワルはワルでも頭が悪いだけなんだがな」
「でも、その人は本当は優しくて、カッコよくて、すごくいい人だったんです。いえ、いい人です」
「ふーん?今でもそいつとは連絡とかあるんだ」
意外ね、と言いたげな表情で、杏さんは紅茶をかき混ぜた。いえいえ、杏さんだってそうじゃないですか。
「普段はとぼけていても、大事なものを守るためだったら本気になってくれますし、お兄ちゃんのことだってちゃんとわかってくれる人なんです」
「ちょっと待って。陽平とは仲がいいの?」
まさか、と言いたげな顔で杏さんがストップをかけた。あ、気づきました?さすがだなぁ。でも、肝心のターゲットはまだキョトンとした顔で私達を見ている。私は杏さんに目で合図をした。
「すごくいいですよ。うん」
「へぇ……ねぇ芽衣ちゃん、よかったらその人の名前を聞かせてくれない?」
「杏、それはちょっと……」
智代さんが止めようとするが、この時点で私と杏さんは共犯関係を結んでいた。
「そうですねぇ……ちょっと遠慮しますよ」
「遠慮しますって言ってる割には、話したがってる顔よ?ほらほら、早く言って楽になりなさい」
「でも小さい頃の話だからなぁ……さすがに時効かなぁ」
「そーよそーそー。今時、話しても誰も驚かないわよ。ねぇ智代?」
そこで釘をさす杏さん。さすがに悪戯の心得がある。
「え、あ、まぁそうだが……話したくないんだったら話さなくてもいいんだぞ?」
「またまたぁ、智代ったら大人ぶっちゃって。聞きたい、って顔に書いてあるわよ」
「な、何だとっ?」
慌ててナプキンで顔を拭く智代さん。この人って案外天然なんだなぁ、と智代さんの意外な面に感心してしまった。
「で、誰なの、その初恋の人って?」
「えー……うー……」
「言え!言うんだジョー!!」
わかったよ、お姉ちゃん!!
「私の初恋の人は……」
智代さんが興味無さそうな振りをするために紅茶を口に含んだ瞬間を待って、私は言った。
「岡崎さんですっ!!」
「……っ!!」
さすがに吹き出すような真似はしなかったが、智代さんは無理やり紅茶を飲みこみ、そして気管に詰まらせたのか、盛大にむせた。
「そっかぁ、朋也かぁ」
「はい!」
「そうよねぇ、朋也、カッコいいもんねぇ」
「大事な人だけに優しいってところ、痺れますよねぇ」
「面倒見、いいもんねぇ。朋也だって、芽衣ちゃんみたいなのが妹だったらうれしかったわよねぇ」
「言われましたよ、岡崎さんに。『芽衣ちゃん、俺の妹になってくれ』って」
とまぁ、そこまで言うと、私達は堪え切れなくなって吹き出した。
「芽衣ちゃんには、引っかけられたわね」
「引っかかるかなぁって思ってましたけど、杏さんには失敗しちゃいましたね。ねぇ智代さん……あ」
「あ」
ふと見ると、智代さんが俯いて窓のほうを見ていた。どろどろと簾がかかって、何故かしょぼくれた人魂がどんよりと浮かんでいる。
「……で、でも私だって年下じゃないか。でも、朋也は『どっちが先輩だかな』とかいうし……私には後輩というか年下の甘え成分がなかったのか?これでも甘えているつもりなんだけどな。それともあれだろうか。私みたいな暴力女に甘えられても、朋也には全然うれしくないということなのか?そうか、それなら心当たりもないわけでもないな。ふふふふふ、そうかそういうことか。馬鹿だな私も、今までのオママゴトは幸せという名の幻覚だったわけだ。まぁそれもこんな女にはお似合いだな。ふふ、滑稽で滑稽で涙がにじんでくるぞ?」
「智代、ちょっとジョークジョーク」
「あ、あの、智代さん、冗談が過ぎました」
「そうかそうだな、私と朋也の甘い関係なんて、他者から見れば冗談もいいところだったんだな。それに気づかずに私は踊っていたというわけか……」
辺りがだんだんと暗黒の空気に浸食され始める中、不意に扉が開いて、来客を告げるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あ、岡崎さんお久しぶりです」
『!!』
三人とも有紀寧 さんの声に反応する。
「よぉ……あのさ、内緒の話だけどな」
「はい、何でしょう」
岡崎さんは辺りを見回したが、私たちは死角にうまく回り込んでいたので見つからなかった。岡崎さんは確認した後、少しはにかみながら有紀寧 さんに言った。
「その……あいつが好きなケーキとか、わかるかな」
「智代さんの?サプライズプレゼントですか」
「あ、ああ。その、ほら、たまにならいいかなって思ったんだけどさ。あいつ、ここによく来るし、お気に入りがあるかなって思ってな」
「そうですね、ふふ」
有紀寧 さんは一瞬だけ私達のほうに笑いかけると、厨房に入ると紙の箱を持って出てきた。
「智代さんの一番好きなのはこのガトー・デュ・モカなんです。あと、これは濃い目の紅茶と一緒に注文しますね」
「おう、悪い」
そう言って岡崎さんはケーキの代金を払うと、Folkloreを後にした。それを笑顔で見届けると、有紀寧 さんは智代さんのほうにやってきた。
「ということで早めに帰ったほうがいいんじゃないですか、智代さん」
「え、あ、ああ、そうだな」
「でも偶然顔を合わせると何ですから、商店街に行って買い物をしてから岡崎さんと追いつくとそれらしいですよ」
「う、うん。ありがとう、有紀寧 さん。すまない、杏に芽衣ちゃん。この続きはいずれ」
そういうと、智代さんは今までの暗鬱な雰囲気などどこへ行ったやら、満面の笑顔と軽やかなステップで店を後にした。
「しょうがないわね。ま、半分はあたしたちのせいなんだろうけどね」
杏さんは背伸びをすると、私を見た。
「どうする?」
「そうですね。もうそろそろ行きますか」
私も軽く背を伸ばすと、立ち上がってカウンターに歩いた。
電車に揺られる帰り道。私は先ほどの二人の会話を思い出していた。
傍にいてほしい。ただそれだけで、幸せになれる。
そういう風に想ってもらえる女性がいるお兄ちゃんや岡崎さんは、すごく幸せなんだと思う。そこにいるだけで、自分を受け入れてくれる人がいるから、寄り添ってくれる人がいるから。
でも、幸せなのは杏さんも智代さんも同じで、隣にいるだけで心が穏やかになり、幸福感で満たされるというのは、やっぱりすごいことなんじゃないだろうか。そうだとすると、女性誌とかで「将来の相手は高収入でかっこがよくて、まめにプレゼントもくれて広い家に住んでいる男性」とかいう話が、少し子供じみて聞こえる。少なくとも、それを書いた人が智代さんや杏さんみたいな笑顔やかわいらしくも大人っぽい仕草をできるかどうか、疑問に思えてきた。
早く私もああいう恋愛がしたいなぁ、とふと笑ってしまった。